コミュニケーションについての雑感-23
「叙述に即した確かな読み」の一人歩き?
昨日の話をちょっと違った角度から書きます。
私が教師になった昭和61年頃、国語教育界で盛んにいわれていたのがこの
「叙述に即した確かな読み」
でした。
本文もよく読まないで、勝手な決めつけや思い込みで読む児童・生徒が多いということからの対策だと聞かされていました。
それは確かに大切なことです。
ただ、実際にこのことをテーマにした研究授業をいくつかの学校で拝見したのですが、ちょっとおかしな方向に進んでいるような印象をうけました。
たとえばある児童が「この主人公はこういう気持ちもあったと思います」と文章をきちんと踏まえた上で、さらにちょっとふみこんだ発言をすると、他の児童から
「それはどの言葉からわかるんですか!」
「それが分かる文などないと思います!」
と一斉射撃が始まるんですよね。これではいい意味での「深読み」も「心の奥底を考える」も怖くてできません。
文章に記述されている事実をきちんと把握した上で、描かれていない部分にどういった心が隠れている可能性があるのかを、授業で共に考えることは人間の成長にとって大切です。
この領域になってくると「結論を出す」必要は特にありません。むしろこういうこともあり得るという広がりがポイントです。
*そういう授業展開についてはまた別の機会に書きたいと思っています。
で、模範的は発言は
「ここに、主人公は 悲しくなりました と書いてあるから、悲しい気持ちだったということが分かります」
という感じの発言。確かに文にそう書いてあるのですから、だれも文句はいえませんよね。
こういう発言の仕方をすると担任の先生は「文に即してきちんと読めましたね」と褒めてくれる。
「はい、みんな拍手」
なんてみんなから賞賛される。
クラスによってはこうした読解指導が徹底されて、表層部分の読み取りだけで「自分は人の気持ちを読み取るのが得意!」と自画自賛する子が沢山育ったと思われます。
その当時、国語の授業はそうやらなければいけなせん と先輩たちに仕込まれた若い教員が私などの世代。
今は管理職などの世代ですよね。
そしてそういう国語教育を受けて育った世代が中高年あたり。
その子ども達が若い社会人あたりでしょうか。
そして今の子ども達が、その世代の親をもつ子ども達
そしてペーパーテストの結果とか、パッと答えられることが優秀な子として幼少期から教育を受けている。
すごい大雑把だし、すべてがそうだとはいえませんが、今の若者たちの姿をみていると、悪い意味で「叙述の即した確かな読み」がしっかりと定着しているように感じてしまうのです。
それがアニメでも人間同士でも、パッと見の第一印象で「これはこうだ!」と断定してしまう構えになっていると思うんです。
「すぐにパッと」というのは昔から重視はされていましたが、成果主義・競争原理社会によって、ちょっとでもみんなに後れをとると負け組に転落するという重圧を受けながら育っている子は、大人からみて心配ないと思える子ほど、実はピンチになっているかもしれません。
しかも「もう自分は完全に分かっている」というのが崩されるのも、現代っ子は極端に恐れているようにみえます。
だから実際の人間関係で、国語の読み取りレベルでは相手の気持ちが把握しきれないときに、「もっと深く相手のことを考えよう」という方向に目が向かない・・・・自分が不十分だと認めたくないから。
そうすると自分の理解を超えている場合は、すべて「相手の方が変なんだ!」と攻撃せざるを得なくなっているのかな、と。
自分が崩れないために必死なのでしょう。
でもそれが結果としては他人との軋轢を生み、やがては孤立する道を突き進んでしまうことになる悲劇です。
明日もまたこの「心のよみとり」がテーマです。